もうすぐ七夕ですね。
幼稚園から笹と飾りを持ってかえったユアン。短冊も2枚もらってきたので、1枚はニーナに、もう1枚はユアンに願い事を書かせました。
1年前、ニーナは「大きくなったら、また小さくなってウサギになりたい。」と言っていました。
今年はどんな願い事だろう・・・と、興味津々の私。
迷うことなく書き上げたニーナのお願いは・・・
「ようせいになれますように」
まだまだかわいい6歳児です。
ユアンは「ディズニーランドに行けますように」でした。
私もダディもディズニーは1回で十分なので、残念ながらその願いが叶うことはないでしょう・・・
さて、かなり古いですが、古本屋で偶然見つけたこんな本を読んでみました。
「なぜ?が言える子を育てる」By 千田 夏光 (1989年出版)
なかなか興味深いことが書かれていたので、少しご紹介します。
まず、「国語はすべての学科学問の基礎である。国語力の欠落している者は社会科も理科も数学・算数も理解し得ないか、理解し得ないに近い」。
「人間は考えなければ生きていけないし人間であり得ない」。
考えるという作業は、「頭の中で言葉を組み立てて文章にすることなので、言葉を知らないと考えられない、もしくは考えが浅いということになる。なので、人間が考えるためには国語力が不可欠になる」。
さらに、真の国語力というのは、「考察力と観察力を具備」した国語力であり、乳幼児期からの働きかけで、それは養われる。
どのような働きかけかというと、「絵本の読み聞かせ」です。でも、ただ読み聞かせるだけではありません。
読み終わった後に、
「怖い話だったね。」「かわいそうだったね。」と、自分の感想を伝えたり、読んでいる時に、絵を見ながら「なんでおじいさんは怖い顔をしてるんだろ?」「腰にぶら下がっているのは何だろ?手拭いだね。何のために使うのかな?」「この男の子はどこを見ているんだろ?」「ここにある「これ」って何をさしているんだろ?」と、やたら考えさせることが大切だということです。
「この蓄積が、文字や記号を読みならすようになったとき最も不可欠な考察力を、ついで人間が生きていくのに不可欠な観察力を養う」のです。
この作業を小学生までたっぷりやっておくと、中学生になった時、読みながら思案することができるようになり、自立した学習ができるようになるのです。
自立した学習ができる子は、「わかる」子のことであり、「できる」子とは違います。ただテストでよい点がとれる「できる」子は、そこで終わり。「わかる」子はそこから思想を広げていくことができ、「創造」ができるのです。
中学、高校での国語教育は大学入試のためのでしかなく、それは大学を出れば何の意味もありません。なので、例えテストなど「できなく」ても、「わかる」子であれば、何の心配もいらないので。
「人間の勝負は大学を出て5年目あたりから」なのだから。
「国語」という科目を中心に抜粋しましたが、算数、理科、社会、音楽、美術についても興味深いことが書いてあったので、興味のある方は読んでみてください・・・
この本を読んで思ったこと・・・
ニーナは絵本を読み聞かせていると、やたらと絵を見たがって細かいことを聞いてくるのですが、まさに「考察力、観察力」を養っていたんだな〜、と。
何分も同じ絵に見入って、なかなか先に進まないので、「そんなに見てたら先にすすめないじゃん!」なんて言うことも多々ありましたが、成長の機会を摘み取っていたんだな・・・と反省。
それこそ、読み聞かせの心髄なのかもしれないですね。
今後は「最後まで読み終える」ことを第1目標とするのではなく、考えること、感じることをもっと大切にしながら読み聞かせをしていきたいなと、改めて思う私なのでした。
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